推しクライマーインタビュー 5~文字通りの”伴奏者”夫妻~

推しクライマーインタビュー 5~文字通りの”伴奏者”夫妻~

およそ1年ぶりの推しクライマーインタビューです。

第5弾となる今回は、夫婦揃ってあの小川山の不可能スラブの「伴奏者」(初登時 五段。現在は四~四/五段との意見がある)を登った小林夫妻にインタビューさせていただきました。


過去の推しクライマーインタビュー

推しクライマーインタビュー 1~スラビスタと呼ばれる男~

推しクライマーインタビュー 2~クライミングの狂気に飲まれた男~

推しクライマーインタビュー 3~ノーマットスタイルの隠れた継承者~

推しクライマーインタビュー 4~Theハレ男~

小林夫妻は決してクライミング歴が長くはなく、更に40前後という年齢ながら半年間ひたすらに不可能スラブに通い詰め、ほぼ同時期に二人とも伴奏者を完登しました。更に旦那さんの小林さんは「頭痛」(現在四段と言われている)も登っています。

また、異常なまでに不可能スラブにこだわっているのに、全く悲壮感を感じさせずどこかのほほんとした二人の姿や話しぶりは非常に清々しいです。

そして、お互いに刺激を与え合い技術を高め合ったことは間違いないですが、過去にインタビューさせてもらったスラビスタやノーマットスタイルの宮下君などからも大きな影響を受けていたようで、まさにこの企画の点と点が繋がった集大成のようなインタビューとなったのではないでしょうか。

それでは、爽やかで朗らかなインタビューをお楽しみください!

何事にも熱中するスポーティーな妻と、のほほんとした運動経験0の夫

-まずは簡単なプロフィールを教えてください

夫 小林圭(以下、小):1978年生で、次の12月に39歳になります。ライノだとイッシー(ライノ常連の中でも断トツの岩キチ。Rampage四段など数々の高難度課題を登っている)と同じで、バラカの”殺し屋”林さん達の世代の1つ上かな。(植田注:尾川智子さんが1978年生まれ)

仕事はアパレル関係をやっていて、その後オーバーグラウンドのジムスタッフに一時期なっていたけれど、また別のアパレル関係の仕事に戻っているよ。

昔っからスポーツは何にもやっていなくて、学生時代は帰宅部だったね。体動かすのが昔は本当に嫌いだった。クライミングを始める前は仕事終わりに飲んだくれては帰って寝るというひどい生活だったよ。

妻 小林リサ(以下、リ):私は1976年生まれだけど、早生まれだから次42歳になります。ライノだと結構多い世代で八百屋、鎌兄、わっしーとかがいるかな。(植田注:小山田大さんが1976年生まれ)

仕事は助産師をずっとやっているけれど、途中カナダにワーキングホリデーに行っている時はウェイトレスとかもしていたよ。

小さい頃から運動は大好きで、何事にも凝り性。小学校から中学まで週4,5競泳やシンクロをやっている水泳バカ。長野出身の家族の影響でスキーにもハマっていた。社会人になってからはスノーボードを始めて、助産師を3年で一旦やめて、海外や越後湯沢でスノーボードに明け暮れる生活。

その後カナダにいった際はアシュタンガヨガにドップリはまってしまい、日本に帰ってきても週5,6日ヨガをやるという日々でしたね。

-随分対照的なお二人だったんですね。

ちなみに、リサさんは本名は違いますよね?なぜリサというのですか?

リ:本名は京子なのだけれど職場の人に「京子っぽくないよね。リサっぽいよね」と言われたのがきっかけなんだよね。それに、旧性に京子だと吉凶半々の人生になるという姓名判断が出ていたことに実は長年悩んでいた。あと、たまたまだけれどライノにキョウコという女性がものすごくたくさんいたこともあって、そういうのが重なってもうリサで通しているよ。

-でも確かにリサっぽいですね!

クライミングを始めたきっかけを教えてください。

小:初めてクライミングをしたのは2009年頃で、キャラバンに勤めている友人に旧荻窪パンプに連れて行ってもらったときだね。でもその時はいきなりハマったわけじゃなくて、月1回くらい登っていただけ。

当時、東京駅で勤務していたのだけど、西日暮里にライノがあることを知ってライノに行ったのが2010年くらいかな。そのときにライノの2階で一緒に出会った仲間が宮下君、嶋田さん、なべちゃん、とかだった。宮下君と全く同じなんだけれど、何となく部活みたいな雰囲気とクライミング後の飲み会楽しくて通っていたのが大きな理由だね。

-やはり当時から皆ライノで登るのは最初は2階なんですね。

小:猛者が集まる1階には半年くらい降りられなかったね。当時はスタッフで一絵さんがいたのだけれど、2階で登っている僕ら初心者をよく見てくれていて、一絵さんが「この人はもう2階じゃ物足りないな。1階でも安全に登れるな」と判断してくれると、「そろそろあなた1階に行ってみれば?」って良いタイミングで声を掛けてくれたんだよね。これを仲間内で一絵システムと呼んでいた。

-一絵システム、初耳!
リサさんはどのようにクライミングと出会ったのですか?

リ:ワーホリでカナダにいた2007年にケロウナという町で、岩場でトップロープをやったのが最初。当然シューズもハーネスもないからその場で友人のものを借りて、クライミング経験0なのにいきなり岩場に連れて行かれた。その時はヨガばかりやっていたから、クライミングはそれ以上やならかったんだけれど日本帰って1年後くらいにケロウナ会というその時の中まで集まる機会があって、そこに来ていた友達に下北沢グラビティに連れて行ってもらったのが日本での初めてのクライミングだね。たしか2011年の秋頃だと思う。

でもその頃はまだヨガにどっぷりハマっているから毎日のように朝5:45からヨガをやって、その後化粧して仕事に行くみたいな聖者みたいな生活をしていたから、クライミングはそこまで熱中していなかったね。

-やはりリサさんは何事にも一直線に熱中する性格なのですね。

そこからなぜクライミングに傾倒していったのですか?

リ:実はヘルニアになってしまって、生活の色々な面がストップしてしまったんだよね。それでもちろんヨガの頻度もどんどん減ってしまった。しばらくしてヘルニアも落ち着いてきて、何かスポーツを再開しようと考えた時にスポーツ整形の先生に診てもらったら、なんとクライミングならOKと言われたの。そこからタガが外れたようにクライミングをどんどんするようになったのが2012年頃。

それで偶然なんだけど、ライノに通っていた矢野さんの奥さんとヨガ繋がりで知り合いだったの。そこでライノのことを紹介してもらって2012年の11月くらいからライノに通い始めたんだよね。

岩に対しても、ワイワイやりたい温和な夫と、ひたすらに負けず嫌いな妻

-そこで小林さんとリサさんが出会ったわけですね。

リ:そうそう。確かライノのオレンジテープ(5級)の最後の1手ができなくて、それを小林さんに教えてもらったのがきっかけで仲良くなったんだよね。あとお互いに平日休みだったから、私から「岩場に誘って誘って!」ってよく言っていたかな。

-クライミングを始めて初期の頃から岩が好きだったんですか?

小:僕はライノに来ていたシュン君に連れられて御岳とかに行っていたけれど、そこまで最初の頃の岩場の記憶は無いなぁ。デラシネとか登ったような気はするけれど。その後も御岳は行きやすいから行っていたけど、どちらかというとこれも岩場のあとの飲みが楽しいから行っていたというのが正直なところだね。

リ:私は、初めて割とすぐの2012年の秋には瑞牆に連れて行ってもらったんだけれど、その時のことすごく覚えているな。皇帝岩の「ロイヤルポケット」(5級)が登れなくて悔しかった。それで「マットが無いと岩に連れて行ってもらえない!」って思ってエッジ&ソファのオンラインショップで注文して、2回目の時にはマットを既に持ってた。その時に桃岩の「桃源左抜け」(5級)が登れて嬉しかった。

その後も誰かに岩場に連れて行ってもらうチャンスが無いか虎視眈々と伺っていたよ。御岳でもデラシネの4級、マミ岩の4級、白狐岩の3級とか登ったのが思い出深いなぁ。

-やはり小林さんはどちらかというとのんびりとみんなでワイワイ楽しんでいて、リサさんは一度ハマるとどっぷりという感じなんですね。

小:リサは初めの頃から負けず嫌いが本当にすごかったよね。

リ:よくナベちゃんとか、嶋田さんとかとレンタカーをシェアして笠間に行っていたのだけれど、課題にハマると歯止めが効かなくなることが多くて、嶋田さんからは「出た出た、リサの泣きの3,000回」とよくからかわれていた。笠間のエモーションがある岩のフェイスの6級がどうしても登りたくて、一絵さんの登りを見まくったりして、血を流しながらなんとか登ったのが懐かしいなぁ。

他にもジャンボさんとか鎌兄と瑞牆のゲートが閉まってから岩が凍っているような時期に連れて行ってもらったこともあった。

私は昔から岩場は戦いの場だと思っていたからね。

結婚・引っ越しを転機に夫妻で爆発的に岩にのめり込む
高難度課題の登り方が見えてきた夫

-二人の温度差がすごい!

でも、小林さんもその後どんどんと岩にのめり込んでいきますよね?

小:転機になったのは2015年の夏頃に実家がある埼玉の鴻巣市に引っ越したことだね。実家の車が自由に使える上に、下道だけで小川山まで4時間かからずにいける。金峰山荘の利用代を含めても合計4,000円掛らないから、実質1人2,000円以内で小川山まで行けちゃうんだよね。これを境に2人で岩に行く機会が爆発的に増えたかな。

あとは働いていた会社が無くなってしまったのだけど、パチ君の紹介もあってオーバーグラウンドで働かせてもらえるようになったことも大きかったかな。

-このシーズンを境に小林さんは小川山を中心に次々と成果を挙げますよね。

印象的な課題を教えてもらえますか?

小:このシーズンは「穴社長」「the two monks」「忘却の河」「大いなる河の流れ」(いずれも二段)とかを登ったんだけど、一番印象に残っているのは穴社長だね。この課題は登りたくて本当に追いかけた。始めは自分には難しそうだけどとりあえず続けてみていつか登れるかなという印象だった。2015年春に触って、結局は延べ8日間かけて秋に登ることができたのだけれど。

この課題を通して高難易度課題の登り方がなんとなくわかってきたことが自分にとって大きなことだったかな。春シーズンが終わった頃から触り始めて、コンディションが悪い梅雨も夏も触り続けて、もちろん高度は上がらないのだけれど、そうすることでコンディションが良くなってきた秋に登り切れるというパターンを身にるけることができたんだよね。

次のシーズンも「真夜中まで」(三段)を同じような攻め方で登ることができた。最初は初手が全く止まらないんだけれど、シーズンの経過と共にだんだんとできてくるのが面白かったなぁ。

段階なんて追わずに、やりたい課題をやって良い

-リサさんもこの頃から急激に登れるグレードが上がったように見えましたが、何かきっかけとなる出来事はあったのですか?

リ:私もこの時期までは小川山の「サブウェイ」(3級)をひたすらに撃ち込んでようやく登れたという感じだったんだよね。

でもある日ミル姉にふと「忘却の果て(初段)、リサさんやってみなよ」と言われて、半信半疑のままトライしてみたら3日くらいで登れてしまった。3級とかがやっとのレベルだったから初段を登れたのにびっくりだったんだけれど、そこで必ずしもグレードの順を追ってやる必要はないってことに気づかされたんだよね。その後も「太鼓判」「神の瞳」「指人形」「虹の入江」(いずれも初段)とかを立て続けに登ることができた。

翌シーズンの2016年にはたまきさんがやっていたのをきっかけに「飛沫」(二段)、今年の2017年4月にはミハルちゃんのムーブをパクって「静かの海」(三段)が登れた。

だから私は二段、三段、そして伴奏者まで各グレード1本ずつしかできていないんだけれど、それでもやりたい課題を追いかけてきて、みんなのおかげで登ることができたんだよね。それもこれも最初にミル姉が背中を押してくれたことがきっかけだからミル姉には特に感謝しないといけないなぁ。

登れそうな課題ではなく、死ぬまで記憶に残るトライをしたい

-本当にその通りだと思いますね。グレードが自分に合っているとか考える必要はあまりないですよね。

ではようやく本題の伴奏者なのですが、まず撃ち込むようになったきっかけや経緯を教えてもらえますか。

小:「豊かの海」(三/四段)に撃ち込んでいるときに、足立さんが伴奏者をトライしているのをずっと見ていたんだよね。足立さんは自分のことを”伴奏者マン”と自称するくらい、とにかく伴奏者をひたすらにやっていた。伴奏者に関してはよっちゃん(DoogWood 岩橋オーナー)が登ったことは聞いていたけれど、普通のヒトが登れるもんじゃないって漠然と思っていたかな。

でも結局足立さんは3年かけてなんと伴奏者を登ってしまった。完登したトライは見れなくて、ネットかロクスノで完登したことを知って、そこには完登後に不可能スラブの上で号泣したと書いてあった。

これを読んで、自分は今まで登れそうな課題ばかり追いかけたり、段数稼ぎとかばかり考えていたけれど、そうじゃなくて登れなくても良いから一生をかけるくらいの課題をやってみたい、死ぬまで記憶に残るトライをしたい、って純粋に思ったんだよね。それでもし登れないままポックリ死んだらそれはそれで良い。とにかく、気持ちがこもったトライがしたいって強烈に感じた。それで、ちょうど不可能スラブ付近にいたし、グレードは関係ないとは言え四段とか五段が付いているし、自分も号泣したいし、伴奏者に決めたんだよね。

-素晴らしい境地と決意ですね。

伴奏者をトライした最初の頃の感触はどうでしたか?

小:初めて触ったのが、2017年4月終わりでまずスタートを切るのに2日間かかったね。でもまぁ五段だしこんなもんかって感じだったかな。

でも5月に入って静かの海が終わったリサが伴奏者をやり始めたんだけど初日からスタートができて、自分のアドバンテージが全く無くなってちょっと焦ったね。

-それはすごい!

リサさんはスラブ得意だったんでしょうかね?

リ:いや全くそれまではそんなこと思ったことはなかったんだけどね。

小:リサが「一難去って」(豊田のd)とか静かの海の上部を登っているのを見て感じていたけれど、リサはスラブの心得を掴んでいるんだよね。迅速な重心移動でバランスを取るのが僕より上手い。保持をしないでスッスッと登って行くのがビスタに近いかな。僕はどっちかというと保持って登る感じで安藤さん(岩で有名なクライマー。不可能スラブを「覚醒」以外全て完登)に近いのかな。

-その後はどのような進捗だったんですか?

小:それが2人ともスタートが切れたらすぐ3歩目までは行けたのだけれど、所謂「スプーンカット」と呼んでいる3歩目を右足で踏むムーブが全くできなくて11月までそこからほぼ何も進まなかったんだよ、実は。

-え、じゃあその部分だけに半年くらい費やしていたんですか!?

リ:そうなんだよね。スプーンカットを踏んで中継の右手をとったり、左手のカンテを上げようとしている内に滑ってきちゃうっていうのをひたすら繰り返していたの。

小:でその内暑い季節がやってきちゃって、8月とかになると僕はスタートすら全くできない日もあった。さっき話したように自分はスタートもレイバックみたいにカンテを保持しているから、そこのフリクションが大切なんだよね。そういう日は1回しかトライしないで歯ぎしりしながら帰ることもあったかな。逆にリサはスタートも足に乗っているから夏でもその3歩目までは行けていた。

この頃はもうあまりに何もできないから3年計画くらいで考えていたね。でも伴奏者をリサとセッションするのはこれまでにない感じで面白かった。どうしても傾斜がある課題だと僕の方が有利になっちゃうけれど、スラブなら完全に対等にトライできるから。

雨の日も通い続け、トライ回数は7~800回に及んだ

-夏も通い続けたということは、結局どれくらいの日数通われたのですか?

リ:数えてみたら、30何日間通っていたみたいだね。でもその内何日かは雨。朝の7時から登り始めて、8時にはもう雨とかの日もあった。そういう日は犬岩の「上弦」のルーフの下で寝たり。とりあえずお風呂に行って、帰ってきても確認してもやっぱりびしょびしょでトライできなかったりとか。

小:だからそう考えると、僕の方が少し早く始めたけどその分先に登ったからお互いにトライ日数は28日くらいかな。トライ回数は7~800回くらいなはず。でもこれだけやっても僕にとってスタートは核心の1ついつでも落ちれるんだよね。足立さんも「スタートは最後まで悩まされた」と何かに書いていた。

<雨でぬれている不可能スラブ>

-完登するにあたって何か劇的な改善や、キーとなったムーブのコツなどはありましたか?

リ:何か劇的な改善があったというよりはありとあらゆることを試して、それぞれ自分の登り方に行きついたって感じかな。

小:伴奏者は実はよく見るとホールドがたくさんあって、本当にムーブも色々あるんだよね。だから完登者から話を聞いたりムーブを見せてもらったりしてもみんな結構違う。例えば足立さんはやたら刻んでいくムーブをしている。

リ:エッジ&ソファのジンジン(京屋さん)はカンテをマッチするというムーブで夏に半袖短パンで登っているんだけれど、あれは全然マネできない。

小:あのムービーを観たときは衝撃だったね。京屋さんのことはビスタから「夏に登った男がいる」という情報を聞いていたんだけど、たまたま9月にエッジの松本店に行った時にスタッフの名札を見たら「京屋」と書いてあってそこで出会った。そこで登ることもほとんど忘れてずーっとしゃべって、伴奏者のムーブもめちゃくちゃ色々聞いたね。

リ:でも私たちもジンジンのムーブも含めて色々試したけれど、結局それはできなかった。

-登る人によってムーブも多種多様でかつ、それぞれが難しいのが面白いですね。

結局どのムーブに行きついたのですか?

リ:色んなムーブを試してはそれはないなと取捨選択している内に、結局元のムーブに戻ったんだけれど、秋になる頃にはそういう試行錯誤を経たせいか右足のスプーンカットにだいぶ乗れるようになっていたんだよね。

小:僕とリサでも少しムーブは違って、僕は3歩目のスプーンカットを踏んだ後に左カンテを一旦アンダーで持ち直してから右手を挙げている。でもリサはそれをしないでいきなり左にいっている。どちらにせよ色々試した結果、自分たちのムーブが信用できるようになっていたね。

それでそこを超えてきてようやく完登を意識するようになって、これは夢や幻の課題ではないんだと思えるようになったね。というのも、伴奏者は実は上部はそこまで難しくなくて、足もかなり良くなるから。下部や中部のフットが悪すぎるせいか、最終右足はビスタが”ヘヴン状態”と呼ぶくらいすごいガバ足に感じられるんだよね。

女性初の伴奏者完登を逃す

-ヘヴン状態!?

じゃあそこからはあまり落ちないんですかね。

小:そこからは僕の体感グレードでは3級くらいかな。でもビスタはマントルで4回落ちたらしい。ビスタからは「あのマントルのコブ2つ悪いからね」と釘を刺されていた。

リ:私は”ヘヴン状態”の右足から左足を上げるのに結構苦戦した。みんなの登りを見ていて、最後の右ポケットさえ取れば終わりだと思っていたのにやってみると左足が全然上がらない。

そうこうしている内にチャンカナ(関野奏子。女性で伴奏者を初めて登った)に先をこされっちゃったんだよね。私はそのパートは結局は自分の手で左足を掴んで上げて解決したんだけどね。

-そうか、リサさんはもう少しで女性初の伴奏者完登だったんですね。

小:チャンカナとはすごくフレンドリーに静かの海とか伴奏者をトライさせてもらってたんだけれど、チャンカナが登った時は二人して「やられたー!」って感じだったね。その翌日に僕が、その5日後にリサが登ったんだけれどね。

リ:私も”ヘヴン状態”の右足に立ち上がるまでは全然完登を意識してはいなくて、どちらかというとコバちゃんがやっているから私もやっているくらいの感じだったんだけれど、そのくらいから自分の中で完登が現実味を帯びてきてしまった。だから例の持ち前の闘争心にも火が付いてしまって。

それでチャンカナが登った時もものすごく悔しかったし、そんなことでイライラしている自分がイヤになって余計イライラするみたいな。なんであそこまで行っているのに決めきれないんだみたいな。

コバちゃんが登った時も正直喜びよりも悔しさが勝ってた。密かに妻による夫の「下剋上」を狙っていたから。

小:僕が伴奏者を完登とき、リサは「ハイハイ」みたいな感じでちょっと不機嫌になってたもんなぁ。リサが登った時は僕泣いたのに。

不可能スラブをセッションする仲間たちからのアドバイスと細部にわたる試行錯誤

-ここでもお互いの対照的な姿が面白いですね。

でもビスタを筆頭に一緒に伴奏者をトライしている仲間同士で切磋琢磨したり助け合う姿は素晴らしいですね。

小:ビスタと宮下君と4人で「火曜スラブ会」というのを結成して、本当にひたすら不可能スラブに通ったね。特にビスタのアドバイスのおかげで完登できたといっても過言じゃない。

シューズも2人とも結局キメラで登ったんだけれど、ビスタが「サイズをきつくしない方が良いよ」と言ってくれたのを聞いて僕は普段インスティンクトVSは39.5なのにキメラは思い切って41にしたんだよね。そうしたらめっちゃ立てるようになった。基本的にべちゃ置きのスメアがメインだからなのかな。

でも後からわかったんだけど、ビスタ的には「ジャストサイズが良い」というニュアンスで言っていたらしい。まぁこっちの聞き間違いだったんだけど、結果的には上手くいったんだよね。

リ:私もインスティンクトレースは39なんだけれど、キメラは40で履いているね。しかも紐もギュッとは締めないで足の形で自然になるようにしている。

<火曜スラブ会>

-1.5サイズも上なんですか!?そこまで緩いシューズを履いているというのは驚きです!

他に役に立った工夫とかもあったりします?

小:あとはシューズが結晶にやられてボコボコになったところをヤスリで削ってエッジを復活させる作業を頻繁にやっていたね。だから全体的にソールが薄くなっていく。これはビスタも宮下君も安藤さんもみんなやっていた。

<左:やすったキメラ 右:新品のキメラ>

リ:あとは験担ぎとかルーティン的な意味もあるのかもしれないけれど、ビスタに教えてもらってPD9(液体チョーク)をシューズに塗ってた。ビスタはこれが本当に効くと言っていた。でもアルコールの人もいるし、宮下君は水で拭いたりしているしね。

小:結局はやすりで磨くのも一緒なんだけど、シューズの裏をF1のタイヤみたいに均一にした上でゴミをとって綺麗にしておきたいんだよね。PD9を塗ると良い感じで綺麗になるんだけれど、ぬれタオルでしっかり拭くとかで良いんだと思う。

<やすり>

-靴の裏をそこまで気にしたことは僕はなかったかもしれません。

やはり伴奏者を完登する人にもなると本当に繊細な感覚を持っているんですね。

リ:あとは私は指にすぐ穴が空くからアロンアルファを塗っていたり、湿度や温度を気にしていたから湿度計も欠かせなかったかな。

小:まぁとにかく朝から晩まで不可能スラブだったから色んな人にアドバイスももらえたし、自分達でもとにかく色々試すことができたよね。

その意味ではセッションする仲間がいなかったり、誰の完登動画も無い頃に登っていたクライマーは本当にはすごい。僕らは先人達の知恵とか周りのフォローがあったから登れたようなもんだね。

<リサさん小道具>

-今後もまだ不可能スラブに通い続けますか?

リ:私は不眠症を登りたいと思っているかな。

小:僕も不眠症、そして覚醒を目指したいね。手首や腰が痛くてなかなか他の課題ができないというのもあるんだけれど。

-ありがとうございます。

そろそろ終わりに近づきますが、お二人は尊敬するクライマーなどはいるのですか?

小:今のボルダリングを作り上げた、池田功さん、草野俊達さん、室井登喜男さんなどは心から尊敬していますね。

あとはもちろん不可能スラブで一緒にセッションした、安藤さん、ビスタ、宮下君。安藤さんなんかはずっと憧れの人だったから会えた時は感動した。

それと中年クライマーとしては、ライムストーンの菊地さん(40歳後半で小川山の伝説のルート「NINJA」(5.14a)を完登)や、ガンズの和久さん(40歳後半で塩原の「ハイパーバラッド」(V14)を完登)からは刺激をもらっていますね。

リ:私は周りにいるクライマーはみんなすごいと思ってるし尊敬しているな。特に女性では、たまきさん、ミル姉さん、吉田パイセンとか。

もちろんコバちゃんも。

-では最後に何か一言あればお願いします。

小・リ:そうですね、強度の高い課題に挑むクライミングはもうそう長くはできないかもしれないので、そういう意味では私たちも老い先短いと思っている。だからこそ、やりたいことをとことんやろうと思って登っていたら一応ここまではこれたんだよね。

こんな姿がおじさんおばさんクライマーにちょっとでも勇気を与えられたら嬉しいかな。

これからもグレードにとらわれずに、やってみたいな と思った課題に気長に挑戦し続けて自分たちのクライミングを楽しみたいなと思っています。

如何でしたでしょうか。

個人的には、このインタビューを通してクライミングとの関わり方の一つの理想形が見えたのではないかと思っています。

クライミングを始めたのが遅かろうと、中年だろうと、女性だろうと、夫婦で純粋に岩を楽しみながら、それでも困難な課題にチャレンジし乗り越えることができる。

それを小林夫妻は示してくれました。

では次回のインタビューはいつになるかわかりませんが、またその時をお楽しみに!

<二人の完登動画>