クライミングって何だ?

クライミングって何だ?

3週間くらい前に殺し屋の林さんが久々にライノに来てくれて、なんだかんだで2人(+途中からレイぴょんも加えた3人)で2,3時間くらいずっと話していた。
今度林さんが出すジム、The FACTORYのこと。
バラッドに対する情熱は、あのバラカインタビューの時から全く変わっていないこと。

その中で唐突に林さんがこう切り出した。

“クライミングって何だと思う?”

これがよくあるチープなメディアの紋切型インタビューなら
“僕にとって人生そのものです”
とか
“終わりのない遊びです”
とか答えたら喜ばれるのだろうけど、林さんはそういうものを期待しているのではない。

ちょっと考えて、Lito Tejada-Flores(リト・テハダ・フローレス)のGames Climbers Play(クライマーの演じるゲームについて)を例に出して話したりしたけれど、それも自分の言葉ではない。

(ちなみに、クライマーの演じるゲームについて、は僕の解釈では、
「クライミングとは様々な制約を自分に課して、ある目的地にたどり着くゲームである。その中でもボルダリングは使ってはいけないものが多いなど最も制約が多いゲームであり、登山遠征隊などは何でもアリの制約なしのゲームである」みたいな内容。たぶん)

しばらくして林さんは自分の現時点の答えを教えてくれた。

“クライミングはただの「移動」だ。そして重力と逆方向で難しい移動ほど評価される”

いかにも林さんらしいシンプルなモノの見方だ。
そして、林さんは僕に
“宿題だから考えといて”
と言って去って行った。

ということで、今回は「クライミングとは何なのか」を考えてみようと思う。

まずクライミングが何なのかということに辿り着くには、「何がクライミングでないのか」を考えることがヒントになるはずだ。
では最初に通常のノーマルルートの登山はクライミングかそうじゃないかを考えてみよう。
山を登るという行為はもちろんそのまま解釈すればクライミングではある。登っているから。
しかし重要なのは「僕にとって」クライミングなのかどうかである。
今僕が真剣に取り組んでいる対象の中に通常のノーマルルートの登山が含まれるのかということである。
そう考えるとノーマルルートの登山はクライミングでは無いと言えるだろう。
なぜそう思ってしまうのかというと、「困難さの基準が違うから」のように思える。
所謂クライミングでは「ある動きができるかどうか」「複数の動きを最後まで繋げ切れるかどうか」というところに困難さがある。
そして困難であればあるほど面白い。
これは林さんとの話にも出てお互いに共感したが、クライミングは「困難」を楽しむものなのである。
しかしノーマルルートの登山の困難さは「体力が持つかどうか」「天候を読めるかどうか」「装備などの準備が適切かどうか」などにあるし、どちらかというと困難さよりもその爽快感とか達成感に遣り甲斐を感じている人が多いと思う。
もちろんそれがバリエーションルートになってきたり、ビックウォール、沢登り、アルパイン、などになると僕が上で挙げたようなクライミングの困難さを大いに入ってくるので境界は曖昧になる。
でもいずれにしても「困難である動きを解決して克服する」ということが今の僕にとってクライミングには欠かせない要素であることは間違いない。

では動きが困難であっても、クライミングじゃないものはなんだろうか。
最近のインドアクライミングのコンペなどに対してよく聞く言葉として
“あんな動きはクライミングじゃない”
というものがある。
その対象に上げられるのは所謂「ランニングジャンプ」や「マリオジャンプ」などとも呼ばれるアスレチック的なムーブだ。

でも僕はこれを
“クライミングじゃない”とは全く思わない
なぜだろうか。
それは、ここまでいかないにしても岩場でも同様の動きが必要となる課題は少なからず存在するし、今後新たなインスピレーションを持った世代によってこういう岩場の課題がたくさん登場するという予感があるからかもしれない。
現在でも例えば塩原のエロンチョは別の岩に立ちスタートにマントル姿勢で飛び乗るという他に無いムーブを要する課題だし、ヨセミテにあるDean Potterが初登したThe Wizardは別の岩を蹴って三角飛びの様にしてスタートに飛びつく(らしい)。
他にも若いクライマーが笠間の石器人スラブや瑞牆の指人形をランニングした勢いで登っているのを見たことがあるが、もしこれらの課題がフットホールドもハンドホールドも無かったとしたら、初登のスタイルがランニングジャンプになっていた可能性もある。

では、もう少し思考を進めてみると、サスケ最終ステージのような「綱登り」はクライミングとして僕は認められるのか。
1stステージなどの丸太にしがみついて振り落とされないように転がるのはクライミングなのか。
丸太は登らずに下っているからちょっと違うとしても、ロープを登る行為はクライミングではある。
更にロープを登ることは(やったことはほぼないが)困難なことだろう。
しかしあの綱登りを僕は真剣に取り組む対象として見られるだろうか。
おそらく今はそうは思えないだろう。
それは、やはり綱登りがロッククライミングとはかけ離れているからであり、どこまでいっても僕が今クライミングと認めてモチベーションが沸く対象の根底には「岩」という要素が必要なのだろう。
「岩」の特性はなんだろうか。
それは「不変性」と「不動性」だと思う。(不動性という言葉があるかは知らない)
長い目で見ればもちろん欠けたりして変化があるものではあるけれど、岩は基本的には不変でありいつでも同じ状態である。コンディションの違いはあるが。
そして岩は動かずにずっしりとした存在感でそこに居座っている。
だから、例えば砂丘を登る行為はそれが困難でも僕にとってはクライミングではない。誰かが1回登ったら明らかに違うものになってしまいその困難さを共有できなさそうなので。
同様にロープや振り子の様に揺れる不動で無いものを登ることもクライミングというモチベーションで取り組むことはできないと思う。
だからランニングジャンプ課題はクライミングと認めることはできても、動くホールドとかが公式コンペで登場したらさすがにそれは違うかな、と思ってしまうだろう。
(まぁ例えば柔らかいホールドで握ると形が変わるとかは斬新で面白いとは思うけど)
しかしこれも曖昧ではある。
アイスクライミングや沢登りはラインは決まっているけれど、対象それ自体は時々刻々と変わるものであり不変ではない。
でも僕はきっと取り組んだらハマると思う。
でもインドアクライミングで水が流れていたり、風が吹いていたりする課題があったらどうだろうか。
今はやっぱりそれは違うと思う気がする。
まぁ物事はそんなに厳密に区切れるものではなく、連続的な世界に僕らは生きているのだ。

まとめると、今の僕にとってのクライミングとは
「不変・不動の対象物を登り、その動きの困難さを楽しむ行為」
となるだろうか。

どうでしょうか、林さん。

追伸:
あ、ちなみに、僕はサスケ好きです。
この間観て泣きました。