登ることに飢えているか

登ることに飢えているか

クライミングを始めて8年以上が経っている。

ジムスタッフを始めてからも4年と少しなので、僕はクライミング人生のほぼ半分をジムスタッフとして過ごしていることになる。

スタッフになってからはクライミングの計画も立て易くなったし、コンディションも整え易くなったし、なにより登る時間が増えた。

そのおかげでこの4年できっと強くなった。

でも今思い返すとジムスタッフになる前の方が登ることに飢えていて、限られた時間でがむしゃらに登っていたように思う。

 

いわゆる社会人時代は日付をまたいで仕事をすることが当たり前だったので、会社帰りの夜中の1時とか2時に公園で懸垂をしたりぶら下がったりすることが日課だった。

新橋付近に住んでいたのだが、奇跡的に会社が早く終わった日には自転車で5,6kmかっ飛ばして品川ロッキーまで行っていた。

その頃にT-Wall新橋店があったらどんなに便利だっただろうか。

でも品ロキが今の僕のベースを作ってくれたことは間違いない。

緑テープが初めて登れた日や、緑コンプリートをした時のことは今でも覚えている。

 

その後東京駅の会社に移り、僕に助けの手を差し伸べてくれたのが当時24時半まで営業していた高田馬場グラビティだ。

仕事をなんとか23時までに終えることができた日には山手線で高田馬場まで行き、23時半過ぎから24時半まで登った。

グレード表には初段まであるのに、テープ課題はなぜか1級が1本で初段が0本だった。

ファイル課題はなぜか全て昔の壁のものだった。

仕方なく、当時の自分は課題作成能力も皆無だったが、ひたすら自分で作った意味のわからない課題を登った。

24時半まで登ると終電が無いのでタクシーで家まで帰り、そして翌日も朝から仕事。

でも高田馬場グラビティが無かったらクライミングを辞めていたかもしれない。

 

長期休暇は基本的に大連登した。

10日以上連続で登った日もあったかもしれない。

品ロキからライノへの謎のハシゴもたまにしていた。

くっそ弱いのに、ジャンボとかとセッションと言えるのかすら怪しいことをさせてもらっていた。

 

土日は異常な睡眠不足だったが岩に行った。

あまりの睡魔に身の危険を感じ小川山に辿り着く遥か手前の首都高あたりで車を脇に止めて仮眠をとったこともある。

岩場に着いてほぼ寝ていただけの日もあった。

あんな生活を続けながらでもエゴイストや阿修羅を登れたことは自分がクライミングに人生を捧げる大きなきっかけになったし自信を貰えた。

 

とにかくあのころはちょっとの時間でもクライミングがしたくて仕方なかった。

まさにStay hungry,stay foolishを地で行っていた。

でもきっとクライミングを長年続けている人は誰しも皆そういう時期があるだろう。

狂ったように登る日々が。

 

では、今の自分はどうだろうか。

その気になればいつでも登れる環境なんて、あの頃の自分からしたらむちゃくちゃに羨ましいじゃないか。

もちろん怪我とか疲労とか年齢とか自分の登り以外にやらないといけないこととか、そういうのは色々ある。

言い訳したくなることもある。

でも、きっとまだまだがむしゃらに登らないといけない気がする。

登ることに飢え続けなければいけない気がする。

 

 

 

何となく2012年の小川山の写真