心から楽しくクライミングをする

心から楽しくクライミングをする

10月にヨセミテ遠征に再び行く。
この1年間は岩を中心に色々なクライミングをやってきたが、頭の片隅には常にヨセミテのことがあったと言ってよい。
ボルダーやスポートの頻度は減らし、トラッド、クラック、マルチ、荷上げ練習などを優先させてきた。
ヨセミテで成果を出すために、登るべき課題、やるべきトレーニング、必要な知識の習得などの「ToDoリスト」を作りその項目を1つ1つ消し込むようにして計画を遂行してきた。
もちろん全てが達成できたわけでは全然ないが、僕としてはこのやり方が近道だと信じていたし、リストをこなすことである程度結果も出たように思う。

しかし先日妻でありクライミングパートナーのむっちゃんがクライミングに対して少し後ろ向きというか不調に陥ってしまった。
本来であれば十分に登れるはずのルートで苦戦をして結局僕にリードを交代する場面もいくつかあった。
後から話を聞くと「ルートに取り付く前から気が重いことがある」とのことだった。
むっちゃんは明言しなかったが、僕が先走って緻密過ぎる計画を立ててしまいやるべきことをリストアップしすぎたことが一因だろう。
計画にがんじがらめになるとクライミングを”させられている”、クライミングを”やらなければならない”という気持ちになりかねない。
結果としてクライミングが義務になってしまい心から能動的にクライミングを楽しむということができなくなっていたのかもしれない。

この一件以来僕はむっちゃんの取り付くルートに口出しすることを止めた。
そのせいもあってか、むっちゃんは純粋にクライミングを楽しんでいつもののびのびとした登りを取り戻しているように見える。

 

壮大な目標を立てること、
今の実力を冷静に分析すること、
そのギャップを埋めるべく緻密な計画を立てること、
それを淡々と実行すること、
いずれも大切なことであり分野を問わず何事にも通じる王道のやり方である。
しかしそれらは前提として常に自発的に楽しんで行われなければ長続きはしないし効果も出ない
楽しんでやれなければどこかで心が折れる。

もちろん何か大きなことを成し遂げるにはただ楽をしているだけではだめだ。
困難には苦痛は付きまとう。
ただそんな苦しさや辛ささえも自ら選択した結果であり、苦しさ辛さを含めて結局はその過程すなわち人生それ自体を楽しんでいるんだというマインドが何より重要だ。
自身の内から湧き出たものではなく誰かに決められたことでは苦しさや辛さしか残らない。
楽しいという感情が溢れ出なくなったとき、苦痛や困難さえも喜びと捉えられなくなったとき、目標は強迫観念となるだろう。
計画は重荷と化すだろう。
クライミングはただの作業と成り下がるだろう。
常に全てのことを心から楽しめる状況にいたいし、それが実は壮大な目標達成の近道なはずなのだ。

僕らは心からクライミングが好きだ。
過度な計画や余計な言葉で不要なプレッシャーを自分たちに与えることはしなくてよい。

ヨセミテではありのままにクライミングを楽しむ。