『1Q84』の解釈・感想
*この記事は村上春樹氏の小説『1Q84』に関する物語のあらすじ・核心に触れますので、知りたくない方は御注意ください。
『1Q84』を一応2度程読んだ。(「一応」と書いたのは2度目は多少細部を飛ばしたからだ。)
まず感想を素直に言えば「非常に面白かった」。
ここまで読み手を飽きさせることなくグイグイと引きつける小説は少ないと思う。
ただかなりの疑問・何を指し示しているのかわからないところ、があったので、出来る限り自分で考え解釈してみたい。
もちろん小説として書かれたものを違う言葉で解釈するのには限界があるだろうし、村上氏にも何か明確な意図があって書いたわけではないかもしれない。
ただ彼の言葉を借りるとすれば「僕には『1Q84』を解釈して、それを違う言葉に置き換えざるを得ない」のでやってみることにする。
方針
①出来る限り『1Q84』に書かれていることのみから根拠付け類推し解釈する。(もちろん過去の村上氏の小説、読者とのメールのやりとりをまとめた本は何冊も読んだのでそれに考えがいくらか影響されてしまうとは思うのだけれど。)
②出来る限り曖昧な表現はなくす。
登場人物の関係図
1Q84とは
Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。BOOK1 P202
見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。BOOK1 P27
ここはパラレルワールドなんかじゃない(中略)1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、私にとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない。BOOK2 P271,272
1Q84年は切れば血の出る現実の世界なのだ。BOOK2 P337
月は二つ浮かんでいる。(中略)しかしここにいるすべての人に二つの月が見えるわけではない。(中略)今が1Q84年であることを知る人の数は限られているということだ。BOOK2 P272
ドウタが目覚めたときには、空の月が二つになる BOOK2 P412
以上のことをまとめると
少なくとも天吾と青豆にとっての現実世界は1Q84年である。
そして1Q84年であるということは月が二つある、つまり自らのドウタが目を覚ましたということである。(青豆などにとって月は片方がいびつな形なのでドウタはまだ目覚めかけとも考えられる。)
より1Q84年には自らのドウタが目を覚ました人のみが存在すると考えることができる。
タマルなどにとっては月は1つにしか見えないのでタマルのドウタは目を覚ましておらず、1Q84年でなく1984年に生きると考えられる。
ドウタ、マザとは
(ドウタとは)生きている影のようなものだ。BOOK2 P278
(空気さなぎの中を指して)そこにいるのは君のドウタだ
そしてキミはマザと呼ばれる
ドウタはマザの代理をつとめる
ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない
(ドウタは)パシヴァ(知覚するもの)の役目をする
知覚したことをレシヴァ(受け入れるもの)に伝える
マザの世話なしにドウタは完全ではない。長く生きることはむずかしくなる。
ドウタはわれら(リトル・ピープル)の通路になるぞ
BOOK2 P411,412
つまり1Q84年を生きる者はドウタが空気さなぎから目を覚まし自分とは離れてしまう、つまり知覚することを失っていると考えられる。
青豆もやはりそのドウタと離れ離れであったことがわかるので、知覚することを失っている、損なわれた人間だとわかる。
こう考えると天吾もそのドウタと離れているはずなのだが、ふかえりがパシヴァの役割をはたすことによって失われずに済んでいる。
ただ疑問が2点残る
①ふかえりはドウタを失っているのになぜ天吾のパシヴァができるのか
②天吾の空気さなぎの中に青豆のドウタが入っている意味はなんなのか
リトル・ピープルとは
この現実の世界にはもうビッグ・ブラザー(ジョージ・オーウェルの小説『1984』における全体主義の独裁者)の出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。
(中略)
リトル・ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだBOOK1 P422
でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。BOOK1 P536
それ(リトル・ピープル)がいつも形を持ち、名前を持つとは限らない。BOOK2 P274
リトル・ピープルが力を発揮し始めたとき、反リトル・ピープル的な力も自動的にそこに生じることになった。BOOK2 P274,275
リトル・ピープルはわたし(さきがけのリーダー)を失うことを恐れている。なぜなら彼らにはわたしの存在がまだ必要だからだ。わたしは彼らの代理人としてきわめて有用な人間だ。BOOK2 283
「空気さなぎを作って遊ばないか」とテノールのリトル・ピープルが言った。BOOK2 P403
彼ら(リトル・ピープル)はマザである少女には直接手を出すことはできないらしい。そのかわりまわりにいる人間に害を及ぼし、滅ぼすことができる。(中略)彼らはもっとも弱い部分を餌食に選ぶ。(中略)こうなったのも、もとはといえばキミのせいなんだぞ、と彼らは告げているのだ。BOOK2 P416
これらの文だけからリトル・ピープルが何であるかを断定するのは非常に難しいし、危険である。
しかし
・リトル・ピープルがドウタをマザから離れたところ(空気さなぎの中)に作る。
・1Q84年にはドウタと離れた人が存在する、すなわち青豆と天吾も何らかの形でリトル・ピープルによってそのドウタと離れた。
・青豆は幼い頃の「証人会」、また親友の環が身勝手な夫により自殺したことによって、何かが損なわれた。天吾は幼い頃父親に連れ回されたNHKの集金と母親のトラウマによって、何かが損なわれた。
を踏まえれば僕はこう推論できると思う。
リトル・ピープル=弱い心を持った大衆の歪んだ総意
であると。
こう考えると
・ビッグブラザー(独裁者)との対比
・ひとりでいることはない、名前を持つとは限らない
などにもに合致するし
・「さきがけ」(山梨県、本栖湖、リーダーの超能力というキーワードよりオウム真理教をモチーフにしていると思われる)、「証人会」(その名前、輸血の禁止よりエホバの証人をモチーフにしていると思われる)
・NHKに代表されるマスコミ
などがリトル・ピープルの声を代表しているのだという筆者の主張だと考えることも出来る。
ただ大事なことは
こうなったのも、もとはといえばキミのせいなんだぞ、と彼らは告げているのだ。
つまりもちろん我々一人ひとりもリトル・ピープル的なものの原因になっているということだと思う。
以上をまとめると
弱い心を持った大衆は宗教やマスコミなど様々な形をとって僕らの知覚を蝕む。しかしもちろん大衆それ自体は善でも悪でもないし、僕らもその一部であり原因を持っているのだ。
村上氏の提案する解決策
「愛がなければ、すべてはただの安物芝居に過ぎない」BOOK2 P289
「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たち(青豆と天吾)がどこかで出会い、手に手をとってこの世界を出ていくことだ」BOOK2 P283
リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。BOOK1 P536
lunaticというのは月によって、つまりlunaによって一時的に正気を奪われること。BOOK1 P551
これに対し村上氏は「愛」を持てと言っているのだと思う。
1Q84年では人々はlunaticになっているだけで、本質的に狂っているわけではなく打開策があるのだ。
それが「愛」だ。
ものすごく簡単に書いてしまったが、本当にそういうことなのだと思う。
青豆と天吾にはそれができるのだ。
残った疑問と続編への期待
上述したように、まだ『1Q84』には疑問がいくつか残る。細かいところをつけばまだまだある。
それに結局青豆はドウタと離れ離れだし(天吾にはふかえりがいるのでいいかもしれないが)、二人が出会っていない以上「愛」によってリトル・ピープルからガイを受けないに至っていない気がする。
なにより1Q84年から1984年に戻らなくてもいいのだろうか。
ただし『1Q84』は上下巻でなくBOOK1<4月-6月>、BOOK2<7月-9月>となっているので続編が出る可能性はあると思う。期待大である。
蛇足
今現在の我々の世界も言うなれば200Q年である。
「愛」の欠如によってリトル・ピープルが騒ぎ出し、僕らのパシヴァはリトル・ピープルの通路になってしまっている。
本当の「愛」を見つけて、200Q年から2009年に戻さなくてはいけないのではないだろうか。
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