1秒の価格のパラドックス

1秒の価格のパラドックス

昔からたまにぼーっと考えては結論が出ないままになっていることを書いてみます。
既に数学的・経済学的・哲学的のいずれかのアプローチで結論が出ている話なのかもしれないので、なんらかの答えを知っている・持っている人がいたら教えてください。

 
 


本記事で考えたいこと

まずこの記事で考えたい事を先に書く。
それは仮に自分の時間を純粋に売ることができた場合、
・「自分の1秒の価格」はいくらなのか
・「自分の残りの人生の価格」はいくらなのか
・仮に「1秒の価格」が有限の値で、かつ「自分の残りの人生の価格」が無限大だとするならば、それは矛盾していないか
・矛盾していないならば、時間の価格は時間を引数としてどのような関数で表せるのか
である。

以下もう少し詳しく説明する



時間の価格に関する思考実験

思考実験をする。
ここは自分の人生の時間にある価格を付けて売ることができる世界。
あなたは「自分の残りの人生の全日数」をいくらで売るだろうか?
自殺願望者でない限り、おそらく答えは「いくらであっても売らない」となるだろう。
当たり前である。
どんなに大金が手に入っても、同時に人生の残り時間が0になって死んだら意味がない。
つまり「自分の残りの人生の全日数」の価格はほとんどの人にとって無限大であるはずである。

では、「自分の残りの人生の日数 - 1日」をあなたはいくらで売るだろうか?
つまり売った瞬間に残りの人生が1日となる。
これは今の肉体・精神年齢のまま残り1日となるのか、死ぬ寸前のヨボヨボの肉体で残り1日を迎えるのか、で話は変わってくるが、これでも大半の人は売らないだろう。
もしかすると、「100兆円で売って、残り1日で豪遊するぜ!」という人がいないとは言い切れないけれど。
しかしおそらくこの残り日数が1日でなく1年、5年、10年と増えるに連れて、ある有限の価格で売ろうと考える人が出てくるだろう。


視点を変える。
「自分の1秒」をあなたはいくらで売るだろうか?
そのまま1秒後の世界にタイムスリップするのか、寿命が1秒縮むつまり死ぬ日が1日早まるのか、で厳密には話は変わるけれどまぁ1秒に対してならどちらの設定でもよい。
おそらく超絶レベルの富裕層を除いて、「いくらであっても売らない」と答える人はほぼいないのではないか。
1円で売る人もいれば、1万円で売る人もいるかもしれないが、とにかくほとんどの人が有限の価格を付けるはずだ。
もし時間のまとめ売りができるなら1秒=1円程度でも1時間単位で売れば3,600円になる。最低時給が1,000円以下である現状を考えれば1円でも売るという人は存在するだろう。

では、これが「1年」だったらあなたはいくらで売るだろうか?
もしかすると数百万から数千万円の一般的な年収程度の価格で売ってしまうという人もいるかもしれない。
私も巨額のお金を積まれたら1年だとギリギリ売ることを考えるかもしれない。
これも売った瞬間に今の肉体年齢が+1年されるのか、寿命が後ろから1年縮むのかによって判断は変わる。
個人的には前者ならいくらお金を積まれても若さを犠牲にしたくはないので売らないが、寿命が後ろから1年縮むのならば、年老いてからの1年と巨額のお金を取引するかもしれない。
そしてこれが3年、5年、10年、30年となるとどうだろうか。
あるラインから「いくらであっても売らない」と答える人がほぼ全てになるのではないだろうか。

 
 

1秒の値段のパラドックス

この2つの思考実験で、冒頭に挙げた論点の上3つに該当するパラドックスが掴めたと思う。
要は
なぜ「1秒」に僕らは有限の価格を付けているにも関わらず、それが高々有限個しか集まっていない「残りの人生の日数」になるとその価格は無限大になるのか
ということが不思議であり、その要因を解き明かしたいことなのだ。

もしこれがパラドックスではない、というならば下の時間価格曲線がどのようになるのか描いて見せて欲しい。

もちろん1秒が有限価格で、人生の残り日数全ての価格が無限大だとしても曲線を描くことは可能だ。
人生の残り日数のところで漸近すれば良い。
しかし既に上で考えているように、「人生の残り日数-1日」も無限大の価格を認める人も多いはずだし、僕は「人生の残り日数-1年」でもいくらであっても売らない。
つまりもう少し手前の時間の場所で、価格は無限大に発散する。
と考えていくと結局はこの時間価格曲線を左から考えた時と右から考えた時の辻褄が合わなくなり、曲線が描けなくなってしまう。

 
 

考え得るパラドックスの要因

パラドックスの要因となっていることがいくつかありそうなので挙げてみる。

 

人生の残り日数を推定できない

上の思考実験でおかしなところがあるとするとまず気付くのは「人生の残り日数」というものを通常は想定できないことにある。
なので10年分の時間をある値段で売ろうとなっても、あと100年生きられるならば有限の価格で売るかもしれないが、あと10年で死んでしまうとわかっていたらおそらくいくらであっても売らない、すなわち無限大の価値を感じることになる。
ここに設定の甘さあると言えばある。
しかしこの思考実験は別に「全ての人間は80歳で死ぬ」という世界であっても考えられるし、パラドックスも同様に起きる。
故に人生の残り日数を推定できないことがパラドックスの直接要因とはなっていない。

 

1秒が人間の活動単位としては短すぎる

1秒という短い時間単位では人間は何も活動できないことが多い。
故に1秒ならば有限の価格で売ってもよいが、1日なり1週間なりまとまった活動ができる時間単位はいくらであっても売らない、つまり無限大の価格を付けるという主張もあるだろう。
これはもっともな主張で、実際にお金に特段困っていなければ1日たりとも失いたくないと考える人は一定数いるだろう。
しかしだからといって本質的にパラドックスは解決されていない。
1日が無限大の価格なら、1時間はどうだろうか?
1時間も無限大なら、1分では、30秒では、、、、1秒では?
そのどこに有限の価格と無限大の価格の分岐点が存在するというのだろうか。
時間価格曲線を是非描いてほしい。

 
 

人生に無限大の価格は付かない

実は人の人生・命には値段が付けられるという考えもある。
色々な推定方法があるが『ランズバーグ先生の型破りな知恵』という実証経済学の本から紹介すると、

ハーバード大学の法学教授であるキップ・ヴィスクージは、100万分の1の確率で死ぬ危険を避けるために平均的なアメリカ人が支払う金額を約5ドルと見積もっている。
エコノミストがこの研究成果を要約すると、平均的なアメリカ人の命の価値は約500万ドルであるということになる。
命の価値を測る方法は他にもある。
化学者なら、人体を構成する化合物の市場価値を基に計算するかもしれない。
会計士なら、将来所得の現在価値を計算するかもしれないし、神学者なら、命を金に換えることはできないと言うかもしれない。

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たしかに上記の様な方法で人の命を値付けすることは可能だ。
しかしこれは人間というものをマクロに統計的に扱う必要があるときには役に立つ数字なのかもしれないが、自分自身の個人的な問題となると話は別であるように思う。
自殺願望がない限り、大金をもらっても死ぬ人はいない、つまり自分の命にはみな無限大の価格を付けるはずだ。
上の見積もりでは確率という概念を持ち出して、人々を錯乱させている。
ストレートに「100%の確率で死にます。いくら払いますか」という質問ならばこたえはみんな「いくらでも」だろう。

 
 

思考実験からの教訓

と、まぁ結論はでないのだけれど、この一連の思考実験から僕なりの教訓を得るとすれば、
「1秒の価格は無限大だと思って生きる」というのが建設的な態度だということだ。
実際のところは1秒の価格は無限大ではないし、ある程度我慢の時期を投下した方が結果的にトータルで人生が豊かになるというケースは確実に存在する。
そういう時に「俺の1秒の価値は無限大なんだから、そんな我慢はしないで好きに生きるぞ!」としてしまうと、未来が詰む可能性はある。
ここで得られる教訓は「たとえ自分の時間を切り売りするような我慢の時期を迎えたとしても、1秒をタダでくれてやるのはやめる。常にそこから何か学びとか経験を得る」という態度を取らなくてはならないということだ。
お金を得るための仕事をしたり、我慢の時期をすごすからといって、別に時間を消し飛ばされているわけではない。
そんな経験にもまた無限大の価値があると考えた方が人生が豊かになる、ということだ。


というなんだか良い話に帰着してしまった。
しかし依然として1秒の値段のパラドックスは解かれていないので、叡智を求む。