クライミング動画を公開することは善か悪か

クライミング動画を公開することは善か悪か

年末なので、自分の中で結論が出ていないテーマではあるが記事を書いてみる。
経験上こういうものはずっと溜め込んでいるより、思ったままに書いて皆の反応を貰う方が気付きが多い。

テーマは「クライミングの動画をウェブ等に公開することの是非」

 
 


背景

インドア/アウトドア、ボルダリング/リードに限らず世の中はクオリティの高低こそあれクライミング動画で溢れている。
かつてはVHSやDVDという媒体であったが、現在はYoutubeなどの動画サービスやSNSを中心に動画の量が爆発している時代だ。
その気になればほとんどの課題に関してなんかしらの動画情報を得られるのではないだろうか。

ただクライミングの写真を公開することは(おそらく)多くのクライマーが容認しているが、動画の公開に関しては反発の声も未だに根強い。
(シークレットエリアなどであればもちろん写真公開もご法度)

その理由はいくつかあると思う。
・オンサイト(情報無しで1回で登ること)の権利を奪われる
・登り方、ムーブ等を解き明かす想像力を奪う
・動画に頼ることはクライミング本来の文化とそぐわない
・動画の登り方があたかも正しいかのように広まってしまう
・クライマーの自己顕示欲を煽り、動画のために登るという行為を助長する
・ひいては成果を求めるあまりチッピング等のタブー行為にまで発展する

などが挙げられるだろうか。

 
 

動画公開に対するかつての僕の考え

これに対して僕はこれまで、「動画公開は容認。自由におこなわれるべき」と考えてきた。
その根源的な理由としては自由主義と性善説を信じるからだが、もう少し説明すると以下にまとめられるだろうか。

・公開された動画を見る見ないは個人が選択できる。故に公開することそれ自体は悪にはなりえない
・一流クライマーのクライミング映像を見て楽しみ、モチベートされるということは歴史的にも自然とおこなわれてきた
・チッピングに繋がるなどは論理の飛躍

そして実際に僕はYoutube等に主に自分の岩での登攀動画をアップしている。
その理由は大半が自己顕示欲かもしれないが、みんなが楽しんで観れれたらとか、喜びの共有とか、誰かの参考になればとか、そいういうポジティブな気持ちも強い。
登った証拠という意味合いも多少はある。
(証拠としての動画はサイードのAction Directeに対する疑惑など最近話題にもなっているが、この記事では深くは突っ込まない)

 
 

動画の弊害

ただきちんと考えてみると、上の僕の主張は少しおかしい。
まず、一流クライマーのクライミング映像作品と今ネットなどに溢れるように公開されているクライミング動画の性質は大きく異なる。
前者を観る目的の大半は、クライミングの限界に挑戦する姿勢とかパッションとか作品としての美しさなどだ。
それを観て自分のクライミングに対する熱量を上げたり、純粋に楽しんだりする。
一方で後者の多くは単にムーブ解析のために使われていることが多いはずだ。
動画は多くのクライマーに対して楽で手軽で安易なクライミングをすることを助長しているかもしれない。
もちろん前者がムーブ解析のために観られることもあるし、一般クライマーの登攀動画も誰かのエネルギーになっていることはあるので線を引けるものではないが。

更に僕が挙げた動画容認の大きな理由である「観なければ良い」というのは、今のクライミング界ではやや乱暴な主張なのかもしれない。
長年クライミングを嗜み確固たるスタイルが出来上がっているクライマーなら観る観ないの判断ができる。
しかしビギナークライマーで、”そもそもオンサイトって何?”程度の知識しか持ち合わせていなければ、そこに動画があれば観ると判断するのが自然だろう。
クライミングスタイルで何がカッコ良くて何がカッコ悪いかを知らなければ、見る見ないの是非を考える以前だ。
よって多くの動画が公開されていることが、始めたてのクライマーを気軽なクライミングへ流しているという主張は否定できないし、おそらく正しい。
というか僕だって深く考えずに、登る前なのに公開動画があるから観てしまったという経験は嫌というほどあるのだ。

 
 

情報は善か悪か

こう書くと、クライミング情報が公開され手軽に手に入ることが悪である、と聞こえるかもしれない。
が、そうではないところがこの問題を更に難しくしている。
むしろ情報が無いことが悪になる可能性だってあるはずなのだ。

例えば、山奥にひっそりとボルダーがあるのを見つけ自分が掃除をし苦労した末に限界ギリギリで登ったとする。
“自分が初登だ!”
と喜んでいるところに、
“実は私が以前登っています”
と情報を後出しにされたらどうだろうか。
仕方がないことではあるが、初登だと思い込んでエネルギーを注いだのに実はそうではなかったとわかったらショックを受ける人もいるだろう。

他にも困難な課題を再登した後に、実はラインが違った、スタートが違った、初登では登攀スタイルが違った、などが分かった場合、もやもやするクライマーもいるはずだ。
そんなの関係ないと言う人もいるだろうが。

だとすると、これは僕の個人的な考えだが、少なくとも
・登ったという事実
・登攀スタイル
・ライン、スタート
などは情報をむしろ公開する方が善
だと感じる。
情報それ自体が悪であるというのは間違いだ。

<クライミングに与える情報量。人によって上下はあるとは思う>

 
 

どこまでの情報公開を良しとするのか

この情報の善悪の線引きが難しい。
クライマー個々人にも依るし、文化的背景も影響する。
例えばトラッドクライミングでは多くの日本のトポにはギアの番手やロープスケールが書いてある。
それらの情報はクライミングの楽しみを削ぐ可能性もあるが、それ以上にギアやロープスケールが分からないことの方が安全面に影響するという考えからだろう。
しかし(聞いた話なので間違っていたら申し訳ないが)イギリスのトポにはギアの番手などの情報は載っていないことが一般的だそうだ。
ギア選択まで含めてトラッドクライミングだというメッセージだろう。

そうやって色々考えると動画による情報取得が必ずしも悪なのかはわからない
写真や文字情報よりも動画の方がラインが明確になるという可能性もある。
クライマーによっては、「オンサイトトライでは絶対動画を観ないけれど、それ以降は動画に頼っても良い」というスタイルを取っているかもしれないしそれは否定できない。
それだってクライミングの立派な楽しみ方ではある。

つまり、全てはグラデーションなのだ。
何が善で何が悪かは一概には決められない。
「いきなり目の前で具体的なムーブバラしてきたり、頼んでもいないのに登って教えてくるおじさん」はどのクライミング世界でも悪だろうけれど、本当に困っているクライマーにお手本を見せることは動画以上の情報を与えるが悪だとは思わない。

 
 

結局は、クライミングを知ること

となんだかんだグルグルすると、結局は大切なのはクライミングの文化やスタイルを知ることだ、という以前書いた記事と同じ主張に戻ってしまう。
・スタイルを求めることは素晴らしいこと
・情報の取捨選択によってクライミングを本質的に多様に楽しむことができること
・自分が公開した情報がどこかのだれかに良くも悪くも影響を与えかねないこと
そいういうことを徐々に知っていけば良い。

それに僕もまだまだ甘いし、考えが変わるかもしれない。
急に全く動画を挙げなくなるかもしれないし、事実今もあえて動画を撮らない挙げないということもある。
でもどんな考えになっても、クライミング情報の善悪などは割り切れる話ではなく多種多様の色んな考えがあるということは忘れずにいたい

全く結論が出ないまま書き連ねたけれど、こんなところです。
ではでは。

 
 

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