ボルダリング「三大クラシック課題」の初出や由来を探る

ボルダリング「三大クラシック課題」の初出や由来を探る

岩場でのボルダリングで「三大クラシック課題」と呼ばれるものがある。
僕のこれまでの漠然とした理解は以下であった。

・御岳の「忍者返し」(1級)、小川山の「エイハブ船長」(1級)、御岳の「デッドエンド」(1級)の3課題を指す
・「三大クラシック課題」と呼ばれているが、あくまで「関東近辺の三大1級クラシック課題」である
・「四大クラシック課題」と呼ぶときは三峰の「池田カンテ」(1級)を加えることも

しかし最近Twitterなどを中心に

“そもそもはデッドエンドではなく池田カンテが三大クラシックに入っていた”
“いや別の〇〇〇が入っていた”
“そもそも三大クラシックって何?知らん”


と言った意見を見かけることがあった。

そのためざっと「三大クラシック ボルダリング」で検索してみたところ、、、
タイトルがクッソ恥ずかしい上に内容がそんなに無い、以下のブログがかなり上位かつ古い記事として挙がっている。

もちろん「三大クラシック」という言葉は僕の造語ではなく、僕がボルダリングを始め岩へ行きだした2010年頃には周辺で使われていた(と記憶している)。
というわけで今回は自分のわかる範囲でこの言葉の初出や由来を探っていきたい。

 
 


前提や言葉の定義

まずクライマー向けの注釈だが、こういう話には必ず

“三大〇〇なんてくだらない。クライマーなら岩自体を登れ”

などと言い出す人がいる。
その気持ちはわかる。
「三大」というカテゴライズによって見えなくなるものはある。
ただ「三大」などわかりやすいフレームによって、(昔の僕のように)モチベーションを得るクライマーがいるのは事実なので、こういう区分はデメリットだけではない。
また僕が今興味があるのは、ある言葉がいつ生まれたのかそれはどうして広まったのかという社会やコミュニティの中での言葉の普及や人間行動的な部分だ。


本題。
大前提として、「三大なんちゃら」みたいなものはほとんどの場合厳密な決まりがあるものではなく、誰かが使い始め(もしくはなんとなく同時多発的に使われ始め)徐々に市民権を得るものである。
しかもどの分野でも論争が付き物だ。
日本三景に対して新日本三景が出てきたり、Twitterでも出ていたが三大うどんのように多数の候補があるものも多い。

ただクライミング界では割とよく使われている括り方であり例えば以下などがある。
・小川山三大クラック(三大5.11クラック?):蜘蛛の糸、イムジン川、バナナクラック
・湯川三大クラック:サイコキネシス、テレポーテーション、バンパイア
・ヨセミテ三大サーティーン:The Phoenix、Cosmic Debris、Excellent Adventure

そしてクラシック(Classic)と言うのは「古き良き定番」みたいな意味なので、こちらもまた自由に使えば良いしそれをみんなが認めれば広まる言葉だ。
誰かにとってのクラシックは誰かにとってはそうではないし、また逆もしかり。
もちろん99%誰もが認めるクラシックだってある。
それだけのものだ。

 
 

「三大クラシック課題」という言葉の初出

その上でウェブ検索&家にあるたくさんのクライミング資料をざっと見返したが、、、予想以上に「三大クラシック」という言葉が出てこない。
僕のイメージだと結構みな当たり前に使っていると思っていたがそうではないようだ。
ウェブ上では先ほど貼った僕のブログが2012年4月であり、これより以前のもので「三大クラシック」的な言葉を探し出せたのは2011年10月のこちらの方のブログ、そしてあるクライマーの方の2012年1月のFacebook投稿だった。
また『Rock&Snow』『岩と雪』その他クライミング関連の書籍で「三大クラシック」と明確に使っているものは(あくまで僕がざっと調べた限りだが)見つからなかった。

以上のことから、実は「三大クラシック」という言葉は出版物などでバシッと誰かが使い始めて登場したものではなく、徐々にクライマー間でただ口頭伝承的に使われはじめそれが2010年代以降のネットやSNSの普及で広まっただけなのかもしれない。
(探し出せなかっただけの可能性もあるので、初出等を知っている方がいたら教えて欲しいです!)

ということでここからは、なぜ三大クラシックが「忍者返し」「エイハブ船長」「デッドエンド」という認識がクライマー間に広まったのかを僕なりに考察してみようと思う。
かなり仮説と推論入ってますがご容赦を。

 
 

「忍者返し」と「エイハブ船長」は1級の基準

まず3本の内、「忍者返し」と「エイハブ船長」は日本のボルダリング段級グレードの1級の基準とされているので、誰かが三大クラシックという括りを提唱したところで異論はほぼなかっただろう。
1999年初版の『小川山 御岳 三峰 ボルダー図集』(通称「黒本」)から引用すると、以下のように著者の室井登喜男さんが述べている。

このシステム(段/級式)は草野俊達によって発案されたもので、御岳の「忍者返し」と小川山の「エイハブ船長」がともに1級の基準とされている。

上記のようにそもそもは草野さんが段級グレードを発案したので、彼の初期のボルダリングの活動の場となった関東周辺の御岳や小川山の課題がグレーディングの基準になったのは自然な流れだろう。
なので「三大クラシック」なのに関東周辺の課題が多いのは、そもそも段級グレードの起こりが草野さんであることに由来しているはずだ。
これらの課題が登られたのが、1980年~84年の頃。
なので「忍者返し」「エイハブ船長」の2課題に対しては、度々さまざまな媒体などで「クラシック」「テストピース」「登竜門」という言葉が昔から今まで使われるため、三大クラシック(少なくとも1級のクラシック)に多くの人が含めて口頭で伝わっていったのは極めて自然な流れであったと思う。

ちなみにボルダリンググレードの成り立ちは『Rock & Snow 026』に室井登喜男さんが書いた「ボルダリングのグレードについて」に3ページに渡って詳しく載っているので気になる方は読んで欲しい。(この文章だけでクライマーなら一晩語り明かせます)

<ロクスノ026>

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<参考 グレード別初登記録 日本のボルダー編>

 
 

「デッドエンド」はいつから三大クラシックと見なされ始めたか

では「デッドエンド」はどのような流れで「三大クラシック」と認知されていったのであろうか。

 

初登から石の人までの時点で既にクラシックだった

まず「デッドエンド」の初登は「忍者返し」とほぼ同時期の1982年~83年であり、初登者も同じく池田功さん。
『岩と雪96』(1983年6月)において「クライマー返し」「忍者返し」に最難のQ5が付けられ、「デッドエンド」は次の難易度であるQ4として紹介されている。
またデッドエンドの岩自体も、クォーク・ボウルダーⅡと名付けられていることから関心を集める岩であったことがわかる(当時池田さんが結成していたのがクォーク・クライミング・クラブ)。

<御岳のボルダー難易度表>

その後今や伝説となった『岩と雪169』(1995年4月)に掲載された草野さんによる「日本ボルダリング紀行 石の人」において、おそらく段級グレードというものが世に発表されるのだがそこで既に以下のような記述がある。

御岳を象徴するクラシックが、忍者返し、クライマー返し(初段)、デッドエンド(一級)、ジャンピングフック(一級)であろう。

つまりかなり初期から「デッドエンド」は「忍者返し」と並びうるクラシックと言われていたということになる。
(ちなみに「ジャンピングフック」はその後釣り人(?)とのいざこざから下地を掘られて水が入ってしまい登ることが困難になった、と僕は理解している)

 

忍者返しが易しくなり、御岳に1級のスタンダードが必要となった

また『黒本』にはこのような記述も見られる。

00年から01年にかけて、御岳には大きな変化が訪れる。「忍者返しの岩」では増水による下地の上昇に加え、岩が欠けた跡の新たなホールドの出現によって、「蟹」「虫」「忍者返し」といった課題がグレードダウンを強いられ、それぞれのグレードの標準とされていた「蟹/三段」「忍者返し/1級」が易しめになってしまうという事態が発生した。

たしかに『岩と雪96』の時点では「忍者返し」の方が「デッドエンド」よりも難しいとされていたが、僕がボルダリングを始めた2010年前後には既に「忍者返しの方が登りやすい」と言われていた。
ここは大いに推測が入るのだが、上記のような「忍者返し」のホールド変化や下地変化による易化により、「デッドエンド」に新たな1級のスタンダード的な側面が求められ、結果として「三大クラシック」に入りやすくなったのかもしれない。

今回気付いたのだが、2017年に発売された『御岳ボルダリング』のコラム「”デッドエンド”の名前由来」の中でも

「デッドエンド」は1992年~93年(注:82年~83年の間違いであろう)頃に池田功氏によって初登された課題で、現在日本ボルダリングにおける1級の基準となっている1本。

との記述がある!
この記述がどの程度クライマーに受け入れられるかは置いておくとしても、「デッドエンド」が基準だと考える見方もあるということだ。

2010年前後から「忍者返し」と並んで紹介されることが多くなる

こういった流れから、特にビギナー~中級者向けの雑誌等において「デッドエンド」は御岳で「忍者返し」と並んで紹介されることが増えてくる。
このような紹介のされ方をクライマーが読み、ますます「三大クラシック」という認識を強めていった可能性はあるだろう。

忍者返し(1級):小川山のエイハブ船長とともに日本一有名な課題

デッドエンド(1級):この課題も御岳のクラシックだ

Climbing Joy No.1 (2008年秋冬)

デッドエンド 1級:忍者返しと並び、御岳の二大マスターピースの1級課題

Climbing Joy No.8(2012年春夏)

<クライミングジョイNo.8>

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2018年末の忍者返しのチッピング

そして2018年末に(詳細な真偽は未だに不明だが)「忍者返し」はチッピングの被害を受け、登るクライマーが一時的に激減する。
その経緯もあいまって「デッドエンド」が御岳の1級課題のスタンダード、ひいては「三大クラシック」という市民権を得ていったのかもしれない。
(↓のブログにも書いたように当時は「デッドエンド」もチッピング被害にあったという話だったと記憶しているが、どのような解釈に落ち着いているのか不明)

<参考 チッピングからクライミングの課題を守るには>

全て仮説の域を出ないが、ここまでが僕なりに考察した「なぜデッドエンドが三大クラシックと認識されたか」である。

 
 

「池田カンテ」が三大もしくは四大クラシックとされることもある由来

次に「池田カンテ」の歴史もわかる限り紐解いておく。

 

初登は1984~85年

初登は1984年~85年 冬であり、初登者は名前の通りレジェンド池田功さん。
おそらく初めて紹介されたのは『岩と雪108』(1985年4月)の「秩父三峰ボルダー街道」の中であり、堀越隆正さんと山川真美さんによってこう紹介されている。

シルク・ハット 池田カンテ
それを見たとき、「登れたらすごいなぁ」と思っていたカンテ。
当初はトライはしてみるものの、まったく可能性を見出せなかったが、クォークの池田功氏の発想の転換(とびつき)により、あっさりと解決されたルート

<当時のトポ>

 

代表的なクラシックと紹介されることも多い

その後上述した「石の人」の中でも

池田カンテ(一級)などが楽しいだろう。

と言及されたり、『Rock & Snow 020』などでは

池田カンテ 1級 ★★★
この地を代表するクラシック

と紹介されている。

1980年代中ごろに登られ、更に初登は池田さん。
そしてあのしびれる内容と岩の高さと充実感を考えれば、「池田カンテ」をクラシックと呼ぶことに反対するクライマーはいないだろう。
ただその反面、(僕の検索能力が低かったのかもしれないが)「池田カンテ」を「忍者返し」「エイハブ船長」「デッドエンド」と並んで三大や四大などと紹介されている記述はあまり見かけなかった。
僕の記憶の中にも「四大クラシック」というワードがあったため、どこかで見かけたか聞いたかしたと思っていたのだが、それこそクライマー間の口頭伝承なのかもしれない。

 

なぜ「池田カンテ」は「三大クラシック」に入らないことが多いか

以下、ハイパー推論。
なぜ「池田カンテ」がデッドエンドと比べ「三大クラシック」と呼ばれる機会が少ないかと言えば、それはやはり三峰が御岳と比べてアプローチなどの面で人気が出づらい岩場なことが関係しているようにも思う。
ドタ勘だが御岳に行ったことのあるクライマー数と三峰に行ったことのあるクライマー数を比べると10倍は差が出るのではないだろうか。(ただここはニワトリ卵であり、例えば”池田カンテが三大クラシックです!”とか大々的に紹介されたら三峰は人気岩場になるかもしれない)

また三峰自体が川の増水等によって御岳以上に下地変化を受けやすいことも原因かもしれない。三峰の岩は度々傾くなどしてグレード変化や消滅してきた歴史がある。
そのような岩場の課題をスタンダード的に見なすことは不自然だとする気持ちもわかる。

加えて「池田カンテ」は上記3本と比べて、登る際に下地など少しリスクの度合いも高いのでビギナーや中級者に向けたカテゴライズの「三大〇〇」には支持されなかったというのも自然な流れに思える。

 

まとめ

ここまでの僕なりの仮説と推論をまとめるとこんな感じでしょうか。

・「忍者返し」と「エイハブ船長」は段級グレードが誕生した頃からのテストピースであるため、(少なくとも関東の1級の)「クラシック」とされた
・「デッドエンド」は初登時から「忍者返し」と並ぶかそれに次ぐ課題と紹介されていたが、「忍者返し」が易しくなったこともあり御岳の1級テストピースとしての存在感を増した
・「デッドエンド」はその後雑誌やウェブの影響もあり、徐々に「忍者返し」に肩を並べるクラシックというような認識がクライマー間で口頭伝承的に広まった
・「池田カンテ」は初登者や初登時期からクラシックと見なされているが、三峰と言う地理的事情や課題特性もあって「三大クラシック」とクライマー間で共通認識されるには至らなかった

結局確固としたことはわからなかったので、情報を知っている方がいたら教えてもらいたいですね。
個人的にはこのあたりの歴史背景を調べることが、都市伝説や民間伝承を探るみたいで楽しかったです。

ではでは。